元メジャーリーガーの野茂英雄が引退を発表しました。「プロ野球選手としてのパフォーマンスは出せないと思う」というのがその理由です。
野球からベースボールに渡り、今日の日本球界からMLBへの橋渡しとなっただけでなく、記録と記憶に残る活躍をした野茂英雄。本当にお疲れさまでした。
「自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強い」と悔いを残しての引退は、非常に野茂英雄らしい終わり方だと思いました。日米通算201勝。関連記事をまとめました。



■関連記事
野球が本当に好きな選手だった。今季招待選手としてロイヤルズのキャンプに挑戦し、不死鳥のように3年ぶりにメジャー復帰した。だが、痛めた右ひじは、完治していなかった。ストレートは140キロを超えることはなく、フォークボールにキレは戻らなかった。
当時はまだメジャーに行くルールが整備されていなかったため、野茂の行動は「協約破り」とも批判された。報道陣ともあまり話さず、「マウンドでの投球がすべて」と投げていた孤高のイメージが強い。本当は雄弁で野球の話は2時間でも3時間でも熱く話した。
「そんなことは全然ない。引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」
ロサンゼルス・タイムズ(電子版)は「草分けとなる移籍で日本選手に扉を開いた」とし、史上4人目となる両リーグでの無安打無得点試合を達成するなどメジャー通算123勝の実績や「ノモマニア」と呼ばれた熱狂的なファンを生んだ功績を紹介。
94年オフ、複数年契約と代理人交渉を要求した野茂は、近鉄との契約が難航。近鉄は野茂を任意引退とし、他球団でプレーできないようにしようとした。野茂は大リーグへの移籍を希望。「大リーグ球団との入団交渉は近鉄が窓口になるように」と当時の吉国コミッショナーは要請したが、近鉄はこれを放棄した。
1990年に近鉄に入団。94年オフに近鉄との契約がこじれ、95年に大リーグ、ドジャースに移籍。1年目から13勝6敗の成績を残し、2005年までのメジャー11年間で通算123勝を挙げた。
実働10年以上という米野球殿堂入りの資格(引退5年後に投票される)を取得した日本人選手は、現在では野茂だけ。日本での殿堂入りはほぼ確実な野茂が、5年後に何票獲得するのか興味深い。
野茂投手は今季、キャンプにマイナー契約の招待選手として参加し、開幕直後に3年ぶりのメジャー昇格を果たした。しかし、好結果を残せず4月20日に戦力外通告された。
ついに野茂が現役引退を決断した。ことし4月にロイヤルズを自由契約となり、日本では楽天、横浜などが興味を示したが、結局は獲得に乗り出す球団はなかった。
また、ナショナル、アメリカン両リーグで無安打無得点試合を記録する史上4人目の快挙も達成。大リーグ12シーズンで計7球団に所属。日本で78勝46敗、大リーグで123勝109敗の成績を残した。
「(記録は)全く考えていませんでした。完投した試合の延長です」(01年4月4日、オリオールズ戦で2度目のノーヒットノーラン)
「僕は、花があるうちにやめるんじゃなく、落ちぶれてボロボロになっても投げ続けようと決めました」(90年10月26日、ルーキーで新人王、MVPなど8冠に輝き)
所属チームはドジャース→メッツ→ブルワーズ→タイガース→レッドソックス→ドジャース→デビルレイズ(現レイズ)→ヤンキース(マイナー契約)→ホワイトソックス(マイナー契約)→ロイヤルズ。