忌野清志郎の死にさまざまな声

忌野清志郎が亡くなってから、さまざまな声が報じられています。

そしてぼくも「もう忌野清志郎はいないんだ」という事実が「もう生で歌声を聴く機会はないんだ」という現実が、じわじわとしみてきています。カーラジオからスローバラード。

ロックの革命家・忌野清志郎さん、がんに死す…58歳、早すぎるよ

66年に中学の同級生だった小林和生、破廉ケンチとバンド「ザ・クローバー」を結成。高校進学で解散し、67年に小林、武田清一と「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (クローバーの残党の意)」を結成。自然消滅したが、68年に「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション(RCサクセション)」を結成。

三宅伸治、ボスの訃報に「信じられない」

忌野清志郎さん(享年58)の元付き人で、最も共演歴が多く「ボス」と慕っていたロック歌手三宅伸治(48)が3日、ブログを更新した。「ボス」と題して、「まだ、みんなと一緒で… ボスのこと信じられない気持ちのまま旅にでています。ただ、どっかで、ボスは見てるような気がするんで…がんばります」と記している。

寛平「走りながら涙が止まらなかった」

「昨日、カンザス州に入ったところで、嫁からの電話で清志郎さんの訃報を聞きました。その後、1日走りながらも涙が止まりませんでした。清志郎さんは、僕みたいなお笑いの人間にも友達のように本当によくしてくれたすばらしい方でした。この地球1周の挑戦が無事に成功した時に、本当に恩返しをしたかった方の1人でした。もう、直接恩返しができなくなってしまったことは非常に残念ですが、今は頑張って走り続け、この挑戦を成功させることが、恩返しになると思っています。明日も清志郎さんにいただいた応援歌を聴きながら走ります。心からご冥福をお祈り申し上げます」

清志郎さん訃報に40年来の親友の友和絶句

自分の芸能界入りのきっかけをつくったのも清志郎さんだった。三浦は「俳優の道に進んだのは、彼がデビュー当時ホリプロに所属していて、そのスタッフが誘ってくれたことがきっかけです」と話している。清志郎さんは三浦に対して、素っ気ないように振る舞っていたが、三浦は「無関心のようでしたが、デビュー作はしっかり見てくれてた」という。

清志郎さんが“ホレた”女性演歌歌手絶句「何も話せない」

亡くなった忌野清志郎さん、元YMOの細野晴臣(61)と91年に異色ユニット「HIS」を結成、アルバム「日本の人」を出した坂本冬美(42)は、関係者から突然の訃報を聞かされ、「ごめんなさい。私、何も話せない」と絶句した。

三浦友和突然の別れにがく然…清志郎さんと高校同級生

清志郎さんと都立日野高時代に同級生だった俳優の三浦友和(57)は、訃報に大きなショックを受けた。「RCサクセション」にはバックミュージシャンとして参加するなど、ゲストでもライブに飛び入りし、妻の山口百恵さん(50)の持ち歌を一緒に熱唱した仲。

ビートたけしも別れ惜しむ「RCサクセションの前座よくやった」

「漫才でデビューした頃、RCサクセションの前座をよくやった。久保講堂のライブはすごくてね。オイラがやってる時は(観客に)相手にされなかった」

盟友・小倉エージさん「繊細な神経を大胆に表現」…清志郎さんの死惜しむ

音楽評論家で、スタッフとしてRCサクセションの作品も手がけた小倉エージさん(62)は、日本のロック史に一時代を築いた忌野清志郎さんの早すぎる死を惜しんだ。米国のR&Bを源流に日本のロックを変えた革命家はさまざまな伝説を残した。

忌野清志郎さん死去に間寛平涙止まらず

清志郎さんは同マラソンの応援ソング「RUN寛平RUN」「走れ何処までも」を提供。「明日も清志郎さんにいただいた応援歌を聴きながら走ります。心からご冥福をお祈り申し上げます」としている。

アッコ、忌野さんを偲ぶ

番組で忌野さんの「スロー・バラード」が流れると、同曲をカバーしたこともあるアッコは「好きなんですよ私。涙が出てきそう。一番好きな曲です」と声を詰まらせ、「ビックリしました。ご冥福(めいふく)をお祈りします」と話した。

清志郎さんを悼む「天敵いなくなった」「永遠に友達」

ロックバンド「頭脳警察」のPANTAは「世の中に対して常に斜に構えながらR&Bを原点にした自分のロックを貫いた。昔、ロックイベントで一緒になった時、客席の歓声を全部さらっていくので“おー、天敵”と声を掛けたら、何も言わずにニコッとした表情を今でもはっきりと覚えている。天敵がいなくなったらつまんねーじゃねーかよ」

竹中直人、清志郎さん急死に動揺…

俳優の竹中直人(53)は、監督した映画「119」(94年)に清志郎さんが音楽監督として参加したり、「サヨナラCOLOR」(05年)に出演するなど親交が深かった。関係者から訃報を聞いた竹中は「かなり動揺し、言葉も出なかった」(関係者)という。

ビートたけし、清志郎さんの前座だった

ビートたけし(62)は、漫才コンビ「ツービート」として人気が出始めた頃に、RCサクセションの前座を務めたことがあると明かし、「RCサクセションの人気がもの凄くて、自分たちの漫才は全然相手にされなかったことを覚えている」と振り返った。

泉谷しげる、盟友・清志郎さんの訃報に悲しき叫び「ふざけんなこのヤロー」

通夜や告別式には「行かない」とした泉谷は、「後日、会いに行きます。お線香はあげない。俺としては好敵手を失いたくない。勝てないんだけどさ、でも強い奴にぶつかっていくのが元気の源だから、責任とってもらわないと。棺桶から出してやりますよ」とぶつけようのない悲しい怒りを口にした。

忌野清志郎さん死去…58歳ロックに生きた

関係者によると入院はしていたが、親しい友人や関係者に心配かけまいと連絡はしていなかった。ところが、数日前から急激に容体が悪化。苦しむこともなく最期を迎えたという。それだけに覚悟していなかった友人のミュージシャンらは深い悲しみに暮れた。

マルチに活躍、清志郎ロックもう聞けない

88年、アルバム「COVERS」の中に原発を扱った曲があるとして発売中止になった時は、社会的にも賛否両論を起こした。しかし、その直後に覆面バンドのタイマーズを結成し、各所でゲリラ的なライブ活動をするなど、常に体制と戦ってきた。清志郎さんが歌ったロックは、ロックが目指す本来の姿勢そのものだった。

清志郎さんフォークからロック、R&Bに

73年 友人の井上陽水と共作した「帰れない二人」「待ちぼうけ」を収録した陽水のアルバム「氷の世界」が日本初のミリオンセラーに。

ロックスター忌野清志郎さんがんで死去

70年代半ばからは、エレキギターを導入してロックバンドに。シンプルな言葉でつづったメッセージ性の強い歌詞を独特の声で歌うスタイルが受け、「雨上がりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」(80年)や、ソロとして坂本龍一と共演した「い・け・な・いルージュマジック」(82年)などヒットを連発。派手な衣装と奇抜なメークも親しまれた。

忌野清志郎さん、壮絶死…がん闘病3年

昨年11月20日の東京・青山のブルーノート東京。92年にバンドを組んだ縁で、米ソウル歌手、ブッカーT&THE MG’sの来日公演に姿を見せた。メンバーに請われ、「え~聞いてないよ」と言いながらも、「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」「ソウルメン」の2曲を披露。最後の熱唱だった。

歌手の忌野清志郎さんが死去 享年58歳

シンガー・ソングライターの矢野顕子「心の美しさが歌に表れている人でした。永遠に友達です」

忌野清志郎さん、歌い続けた「反骨と愛」

当初フォークグループだったRCは、フォークデュオの古井戸で活躍していたギターの仲井戸麗市(58)が加入してロックバンドに。82年出演のフジテレビ系「夜のヒットスタジオ」で、噛んでいたチューインガムをカメラにつけようとするパフォーマンスに抗議が殺到。この奔放な言動が若者に支持された。

忌野清志郎さん死去、自宅はひっそり…

報道陣が呼び鈴を押すと夫人の景子さん(53)らしき女性が応対しようとしたが、取材には応じず。自宅に駆けつけた長男・竜平さん(20)の友人という大学生(21)は、「3月に同窓会で(竜平さんに)会ったときは、『お父さんは大丈夫だよ』と言っていたのに…」と言葉を詰まらせていた。

忌野清志郎さんが死去 がん性リンパ管症で

RCサクセションは91年に活動休止。90年代以降は、ソロとして「パパの歌」をヒットさせたほか、演歌歌手の坂本冬美さんやジャズミュージシャンらとジャンルを越えた音楽活動を続けていた。

忌野清志郎さん死す…突然の他界に衝撃広がる

常に弱者へのいたわりも忘れなかった。上司に給料を上げてもらえず「やる気がしねえ…」と仕事をサボる様子を歌った「ボスしけてるぜ」などがその代表。社会の辛酸をなめる人へのサポートソングだった。反原発などメッセージを込めた曲もあった。「放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ」と叫ぶように歌い、対立したレコード会社を「東の芝の~」とおちょくったりもした。

忌野清志郎さん通夜で坂本龍一が涙

俳優の竹中直人(53)も訪れた。監督した映画「119」(94年)で清志郎さんが音楽監督を担当するなど、親交が深かった。報道陣の問いかけに、ハンカチで涙をぬぐい「無理です。すいません…」と絞り出すのが精いっぱいだった。

坂本龍一絶句!盟友の死にコメントできず

棺に花をたむけ、悲しみの対面を果たしたが、言葉は出てこなかったという。時間が過ぎても気持ちの整理はつかないようで、最後の別れを終え、会場を後にするときも表情は硬いままだった。

もちろん、清志郎だってもっと生きたかったと思います。家族のこともあるし、もっともっと。でも、病気は本当にどうにも避けられないところがあり、理不尽だと思いつつも、それを受け入れざるを得ない場合があります。

がんで闘病した辛さ、苦しさ、悲しさは本人にしか分からないですが、最期、苦しまなかったというのがせめても、なのかな、と。痛みから解放されて、ゆっくり休んでください。心よりご冥福をお祈りいたします。

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