「檄を飛ばす」本来の意味とは?

4838724721

檄を飛ばす」を、なんとなく「応援する」というような意味合いで捉えている人もいるのではないでしょうか? 運動会で味方チームに檄を飛ばす‥‥実はそうい意味ではないのです。

でも心配する必要はありません。他にも「檄を飛ばす」の意味を間違えている人はたくさんいます。「げきを飛ばす」誤解7割 文化庁の日本語世論調査という記事によると、なんと70%前後の人がその意味を間違えていたのだそう。

「げきを飛ばす」「姑息(こそく)」「ぶぜん」について、70%前後の人が本来の意味とは異なる意味で理解していることが29日、文化庁の日本語に関する世論調査で分かった。本来の表現ではない「的を得る」「押しも押されぬ」を誤って使っている人も半数を超え、慣用句などの誤用が広がっている。

「檄を飛ばす」の本来の意味

「檄を飛ばす」の本来の意味をご存知でしたか?

げきを飛ばす → 自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること
姑息(こそく) → 一時しのぎ
ぶぜん → 失望してぼんやりとしている様子
的を得る → 的を射る
押しも押されぬ → 押しも押されもせぬ

「檄を飛ばす」「姑息」「憮然」いずれも意味を間違えていました。応援する、ずるい、むっとする‥‥そんな風に覚えていた人は、他にもいるのではないでしょうか。言葉が持つ響きが誤解を生むんでしょうかね。

例えば「げきを飛ばす」と聞くと、三島由紀夫が演説しているシーンを想像します。そう考えると、誰かに対して「げき」を飛ばすのではなく、「げき」というのは「自分の主張や考え」であり、を広く飛ばしている、広めているのだということが理解できます。

Yahoo! 辞書によると、

げき 【檄】

1 古代中国で、召集または説諭の文書。木札を用いたという。めしぶみ。さとしぶみ。2 自分の考えや主張を述べて大衆に行動を促す文書。檄文。ふれぶみ。

だそうです。「激」が連想されることから、他者に対して何かをする、というイメージになるのかと思いました。

さらに「姑息」は、

こ‐そく 【姑息】

[名・形動]《「姑」はしばらく、「息」は休むの意から》一時の間に合わせにすること。また、そのさま。一時のがれ。その場しのぎ。「―な手段をとる」「因循―」[派生] こそくさ[名]

だそうで「しばらく休む」という意味があり「一時のがれ」「その場しのぎ」となり、そこからのイメージが「ひきょうな」という誤用になってしまうんでしょうね。

ついでに「憮然」も。

ぶ‐ぜん 【憮然】

[ト・タル][形動タリ]失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま。「―としてため息をつく」「―たる面持ちで成り行きを見る」

ムッとするような意味で覚えていましたが、そうではありませんでした。

と、ここまでが2004年に書いた内容でした。

2018年現在はどうか?

日本語は変わっていきます。2018年の今、改めて調べてみると2007年前後の調査結果は出てきました。

まず檄を飛ばす(げきをとばす)の意味 – goo国語辞書によると次のように説明されています。

。文化庁が発表した平成19年度「国語に関する世論調査」では、「自分の主張や考えを、広く人々に知らせて同意を求めること」で使う人が19.3パーセント、「元気のない者に刺激を与えて活気づけること」で使う人が72.9パーセントという結果が出ている。

むしろ本来の意味で「檄を飛ばす」を使う人は少数派である、と。誤用が定着し、励ます意味でも使われるようになっているとしています。

姑息(こそく)の意味 – goo国語辞書に関しても同様の説明があります。

文化庁が発表した平成22年度「国語に関する世論調査」では、「姑息な手段」を、「一時しのぎ」の意味で使う人が15.0パーセント、「ひきょうな」の意味で使う人が70.9パーセントという結果が出ている。

本来の意味である「一時しのぎ」ではなく、誤用されていた「ひきょうな」という意味で使われる方が多くなっています。

となると「憮然」に関しても同じ状況です。憮然(ぶぜん)の意味 – goo国語辞書で次のように説明されています。

文化庁が発表した平成19年度「国語に関する世論調査」で、「憮然として立ち去った」の例では、本来の意味とされる「失望してぼんやりとしている様子」で使う人が17.1パーセント、本来の意味ではない「腹を立てている様子」で使う人が70.8パーセントという逆転した結果が出ている。

本来の「失望」から「怒り」へと使われ方が変化していました。

日本人が言葉から受ける語感とでも言えば良いのでしょうか。時代と共に変化し、新しい意味で捉える人が多数派になっている様子が伺えますし、これらの調査からさらに10年が経過しているので、本来の意味合いで捉える人はさらに減っているのではないかと推測されます。