41歳なう

先ほど、41歳の誕生日を迎えました。恐らく、素面になったら書けないようなことを、今、酔った勢いで書いておきます。40歳の最後の夜は初花一家でスペシャルな焼肉と日本酒を頂いておりました。ありがとうございます。41歳、最初の夜は家族で過ごす予定です。

41歳になった瞬間から、Facebookではお祝いのメッセージをたくさん頂いています。ありがとうございます。1/365にお気遣い感謝です!

酔っ払って気持ちが大きくなっているから書きますが、自分はなんて幸せものなんだろうなって思います。ぶっちゃけ、このままテキストをタイプしながらイスに座ったまま死んでも後悔はない‥‥と言ったら語弊がありますか。ありますね?

とりあえず、7歳と11歳の息子たちが、20歳になるくらいまでは見守りたいと思っています。が、なんでしょう、自分がやり残したこととか、これからやらなければならないこと、みたいなことはありません。

長男が生まれた時に「もう死んでもいい」と思いました。これは本当に不思議なことでしたが、自分の遺伝子が残る安心感からだったのでしょうか。同世代で子供が生まれた友人に聞くと、その時の気持ちは、確かに「もう死んでもいい」という思いに至る人はいるようです。

しかし、やがて、それは「おいそれとは死ねない」という思いに変わっていきます、みんなそのように思うようですが。当たり前ですね。

ただ、40歳を過ぎると、やはりどうしても体力の衰えみたいなことは感じます。ちょっと呑みすぎると二日酔いになるとか。二日酔いで済まなくて三日酔いになるとか。気をつけてはいるつもりでも、分かっちゃいるけどやめられない、とか景気のいいことを書きつつ、実際、もう呑めないな、身体が追いつかないな、と思います。

かといって、昔のように振る舞えなくなったことが不幸とも思いません。最近は、ノンアルコールで飲み会に参加しても楽しめる術を覚えました。周りの人たちのテンションも若い頃のようには無尽蔵に上がらなくなりますから、これはこれで案外、いけます。

この年になると、自分の限界というか、自分ができること、できないことははっきりと分かるようになりました。だから、バカみたいな夢も描きにくくなりはします。あと何十年生きられるのか分かりませんが、自ずと人生のストーリー最終章のようなものも見えてきます。

見えてはいるけれど、見ないようにしているというか。いつ死んでもいいと思いながら、そこからはちょっと目を背けてといるというか。

2007年に母が肺がんで亡くなってから、まだ、死はいつも隣にいます。いつでも、それはすぐにやってくる気がします。身体もいつまでもそのままじゃない気がします。体力は衰えます。身体に異変もあります。でも、こうやって死についていつも考えていることは、諦めていることとも違う気がします。

死がリアルに感じられるようになった。そんなところです。

でも、生きてます。

とりとめのない話になりましたが、残りの人生というには早いかもしれませんが、人生後半戦と言いますか、あとどのくらい生きるのか分かりませんが、できるだけ家族と楽しく過ごしたいと思います。こういうことを書いていると「ああ、自分の全ては家族なんだな」と思います。

まだまだ頑張りますよ。

頑張るけど睡眠不足は苦手です。家族と、支えてくれる、応援してくれる全ての友人に感謝しつつ、そろそろ寝ます。